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『お前のことは俺が守る』
セドリックの言葉に、ミアは思わず笑みを浮かべそうになったが、慌てて俯き顔を隠した。胸の奥で込み上げる感情を抑えようとする。
自分の息子が伯爵位を継ぐ日が来るなんて――信じられない。庭師の娘に過ぎなかった自分が、アシュフォード家後継者の実母になるなんて。喜びと興奮が混じり合い、体が震えた。
その時、庭園を吹き抜けた風が木々を揺らし、赤や黄色の葉がひとつ、彼女たちの足元に舞い落ちた。それは、秋の訪れを静かに告げるようだった。
「心配はない、ミア」
セドリックの声が優しく響く。彼は、ミアが恐怖に震えていると思ったのかもしれない。相変わらず女に夢を見ている男だ、と彼女は内心で嘲笑った。
「セドリック様、私はどうなっても構いません。でも、奥様がもしルイに危害を加えたなら……私は……」
その言葉に、セドリックの表情が険しくなった。
「ヴィオレットはそんなことをする女ではない。侯爵家の娘だぞ。下品な邪推はするな、ミア」
ミアは肩を落としながら静かに頭を下げた。
「ごめんなさい、セドリック様」
「いや、言い過ぎた……すまない」
セドリックの謝罪の言葉を聞いても、ミアの胸の中で冷たい感情が広がるだけだった。
――貴方のそういうところが大嫌いなのよ。
情を交わして子を得たというのに、彼の言葉の端々には自分を庭師の娘と見下す感覚が滲んでいる。他の貴族とは違うと愛を囁きながら、結局は同じではないか。
だが、それでいい。
彼女もまた、彼を蔑んでいるからだ。
セドリックとの最初の子を宿した時、彼女は慎重に動くよう忠告した。しかし、彼は何の対策もせずに自分たちの関係を両親に話してしまった。その結果、彼女はその日のうちに堕胎させられ、庭師長だった両親と共に邸を追い出された。
その後の日々は辛苦の連続だった。職を失った両親から責められ、折檻を受けることもあった。だが、ミアは耐えた。セドリックが必ず自分の元に戻ってくると信じて。
やがて彼が訪れたとき、ミアは抱きついて泣いた。その後、両親との関係は逆転し、今では彼女が二人を罵っても反論すらできない。
――当然よ。私は金のなる木だもの。
「ミア」
「はい、セドリック様」
セドリックは冷静な表情で命じた。
「庭園を三人で散策するのは次の機会にしよう。俺は今からヴィオレットとルイの将来について話す。君はルイを連れて先に邸に入りなさい」
ミアは眉をひそめた。
「私もルイの母として、話し合いに同席したいです」
「その必要はない。君はルイの実母だが、身分はルイの乳母だ。ルイの育ての親はヴィオレットになる。それが彼女の実家である侯爵家への配慮だ」
彼女の表情が僅かに曇るのを見て、セドリックは続けた。
「事前にそう説明したはずだが?」
「確かに……そうですが……」
「ルイの部屋の続き部屋が君の自室だ。使用人に案内させる。行きなさい、ミア」
セドリックの指示に従い、ミアは頭を下げて邸の方へ向き直った。元庭師の娘のミアを、使用人たちはどう思い受け入れるのかーーミアは不安を隠しながら口を開いた。
「どなたか、ルイ様の部屋に案内してくださる?」
怯みそうになる自分を奮い立たせ、ミアは毅然とした態度で声を掛けた。そして、一歩前に踏み出す。
――負けない。
彼女は自分の美貌を最大の武器として使い、セドリックの愛を掴んだ。最初の妊娠と堕胎で彼への愛は消えたが、ミアはその美貌を使い続ける術を心得ている。
苦労知らずのヴィオレット――あの女が自分の息子を奪うことなど許せない。この家を継ぐのはミアが育てたルイでなくては意味がないのだ。乳母の立場では終わらない。
――ヴィオレット、貴女は死ぬべき人間よ。
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◆◆◆◆◆「アルフォンス!」ヴィオレットは我を忘れて駆け寄った。枕元に手をつき、彼の顔を覗き込む。「兄上……!」琥珀色の瞳には涙が溢れ、震える手がアルフォンスの頬に触れた。「目が覚めたのね……本当に……」その言葉に、アルフォンスはゆっくりとまぶたを開き、ヴィオレットを見つめる。その瞳には、確かに意識の光が戻っていた。「……君が無事でよかった」微笑みながら、そう囁く。その声を聞いた瞬間、ヴィオレットの涙がとめどなく流れた。「アルフォンス兄上……!」彼の名を呼びながら、ヴィオレットはアルフォンスの手を握りしめた。その手はまだ冷たく、か細い力しか感じられなかった。それでも、彼が生きていることに安堵し、ヴィオレットは涙をこぼしながら彼の手を頬に押し当てた。「兄上がいなくなるなんて、考えたくなかった……!」涙が溢れ、嗚咽が混じる。「兄上がいなくなったら、私はどうしたらいいの……?」ヴィオレットの肩が震える。アルフォンスは微かに笑みを浮かべ、穏やかにまぶたを伏せた。「私は……どこにも行かないよ」その囁きに、ヴィオレットの涙が一層こぼれ落ちた。「本当に……?」震える声で尋ねると、アルフォンスはゆっくりと頷いた。「……約束する」その言葉に、ヴィオレットの心が救われた気がした。だが、彼がどれほど自分の心を支えていたかを思うと、言葉にならない思いが込み上げる。「アルフォンス……」ヴィオレットは彼の胸に顔を埋めた。「私には貴方が必要なの……」かすれる声で告げる。「貴方がいない世界なんて、考えたくない……貴方がいないと、私は……」言葉が詰まる。「アルフォンス、貴方が私を支えてくれた。貴方がいたから、私は戦えた……だから、お願い、もうどこにも行かないで……」涙で濡れた声で懇願するように言った。アルフォンスは微笑み、そっと彼女の頬を撫でた。「……ありがとう」その優しい言葉に、ヴィオレットは胸が締め付けられる。「大好きよ、アルフォンス……」ヴィオレットは顔を上げ、彼の瞳をじっと見つめた。アルフォンスはそんな彼女を静かに見返す。何も言わずに、ヴィオレットはそっと彼の顔に近づき、躊躇うことなく唇を重ねた。触れるだけのものではない。柔らかく、確かに、彼の唇の温もりを確かめるように。アルフォンスの唇はまだ少し冷たか
◆◆◆◆◆玉座の間での騒動は、人々に衝撃を与えた。噂は瞬く間に貴族社会を駆け巡り、ヴィオレットが無実であったこと、そしてアウグストこそがすべての黒幕だったことが世間に知れ渡る。その結果、彼女に向けられていた疑惑は完全に晴れた。だが、ヴィオレットにとって本当に重要なのは、それではなかった。――アルフォンスが、意識を取り戻さないこと。それが、何よりも恐ろしかった。邸へと運ばれた彼は、いまだ目を覚まさず、白い顔で静かに横たわっていた。薬師たちは解毒薬を施し、何度も診察に訪れた。「毒の量は致命的ではありません。……ですが、意識が戻るかどうかは、ご本人の体力と意思次第です」そう告げられたとき、ヴィオレットの心は締め付けられるように痛んだ。――意識が戻らないかもしれない。その可能性が、彼女を何よりも苦しめた。◇◇◇ヴィオレットは夜も眠らず、アルフォンスの看病を続けた。寝台の傍らに座り、彼の頬にそっと触れる。「私を置いていかないで……私を一人にしないで、兄上……アルフォンス兄上……」何度呼びかけても、何の反応もない。琥珀色の瞳を開いてくれることも、微笑んでくれることもない。ヴィオレットの瞳から静かに涙がこぼれ落ちる。その姿を、レオンハルトは黙って見守っていた。「少しは休め、ヴィオレット」そう声をかけても、彼女は首を振るだけだった。「私は大丈夫です。兄上が目を覚ますまで、傍を離れるわけにはいきません」蒼白な顔、やつれた頬、焦点の合わない目――彼女がどれほどアルフォンスを必要としているか、レオンハルトは痛いほど理解していた。「……帰ってこい、アルフォンス」レオンハルトもまた、そう語りかけた。だが、アルフォンスは応えない。---アルフォンスが倒れて三日目の朝。窓の外には薄い朝焼けが広がり、静かな寝室にかすかな光が差し込んでいた。ヴィオレットは疲労に耐えきれず、ソファに身を沈めていた。意識が霞む中、ふと、幼い声が聞こえる。「伯父様……」かすかな囁きが、静寂を破った。ヴィオレットの意識がゆっくりと浮上する。「母上も、私も……伯父様のそばにいる時が、一番幸せなの!」ヴィオレットは目を開けた。寝台の傍らに、リリアーナが立っていた。彼女の小さな手が、アルフォンスの手をぎゅっと握っている。「だから、目覚めないと駄目!
◆◆◆◆◆玉座の間には、重く張り詰めた沈黙が広がっていた。王の命を受けながらも、アウグストは答えようとしなかった。その代わりに、彼はゆっくりと天を仰ぐ。まるで全ての緊張を解き放つように、肩の力を抜き、深く息を吐いた。やがて、静かに視線を戻し、ヴィオレットを見つめる。その唇には、不気味な笑みが浮かんでいた。「……お前の母が全てを招いたのだ」その言葉に、ヴィオレットの眉がわずかに動く。「お前の母は罪深い」静かに呟きながら、一歩、また一歩とヴィオレットへと近づくアウグスト。異端審問官や貴族たちは、彼の行動を見守るばかりで、誰も動こうとはしなかった。しかし、ヴィオレットはその場を動かず、琥珀色の瞳をまっすぐにアウグストに向けた。「……何が罪深いというのですか?」「……貴様に理解できるものか」アウグストの声が低く響く。「イザベラは、私のものだった」その言葉と同時に、アウグストはゆっくりと手を動かした。彼は指輪の細工を外し、親指で軽く押し込む。カチリ、と小さな機械音が響く。その瞬間、指輪の内側に仕込まれていた毒針が飛び出し、鋭い光を放った。「っ……!」ヴィオレットは後退りが、アウグストの動きは速かった。彼の指先が、ヴィオレットの胸元へと伸びる。「ヴィオレット!」鋭い声とともに、飛び込んだのはアルフォンスだった。ヴィオレットの前に立ちはだかり、アウグストの腕を強く掴む。しかし、アウグストの手が動いた瞬間、毒針がアルフォンスの頬を掠めた。「っ……!」鋭い痛みとともに、赤い筋が彼の肌を裂く。「兄上!」ヴィオレットの叫びが響いた。「下がっていろ、ヴィオレット」アルフォンスはアウグストの腕をひねり、ヴィオレットから距離を取ろうとする。アウグストは抵抗を強めて、二人がもみ合いになる。その瞬間――鋭い蹴りがアウグストの脇腹に入った。「ぐはっ……!」アウグストは床へと吹き飛ばされる。蹴りを放ったのは、レオンハルトだった。「捕らえろ!」レオンハルトの声に応じて、王太子直属の兵たちが即座に動き、アウグストを強引に床に押さえつける。「枢機卿、観念しろ!」王太子アドリアンが冷然と告げる。だが――「……まだだ」アウグストは薄く笑った。動きを止めた兵士たちの隙をつき、素早く自由になった片手を動かす。指輪をはめたま
◆◆◆◆◆血まみれの男が玉座の間に足を踏み入れた瞬間、広間の空気が凍りついた。全員の視線が、一斉に彼へと向かう。セドリック・アシュフォード。彼の顔にも手にも、鮮血がこびりついていた。赤黒い雫が床に滴り、大理石の冷たい表面を汚していく。貴族たちは息を呑み、異端審問官たちの顔色が変わる。しかし、セドリックはまっすぐに進み出ると、アウグストを指さした。「……アウグスト、お前が望んだ通り、俺は王の前で全てを証言する」低く、しかし確かな声だった。その瞳には、今までの迷いや苦悩は微塵もなかった。「だが、お前の思い通りには行かないぞ。俺はもう誰の支配も受けない」静かに、だが確かにセドリックは告げた。「誰の命令にも応じない。俺は自由だ!」彼の血塗れの手がぎゅっと拳を握る。「この手で殺してやった……!」ざわめきが広がる。「……父を」誰かが息を呑む音が響いた。「アシュフォード伯爵を……?」「ガブリエル・アシュフォードが死んだ?」貴族たちが動揺する中、セドリックは静かに続けた。「ミアを殺したな、アウグスト?」アウグストの目がわずかに揺らぐ。だが、セドリックはそのまま言葉を続けた。「ヴィオレットを貶めるために、お前はミアを殺した。ヴィオレットを異端者として裁くために!」王や王太子をはじめ、貴族たちの間に大きなどよめきが広がる。「ヴィオレットの異端さを俺たちに証言させようとしたんだよな?残念だったな。ヴィオレットは無実だ。ミアを殺したのはお前だからだ、アウグスト!」貴族たちの間に、静かな怒りが広がる。「枢機卿が証言を捏造しようとしたのか……?」「では、ヴィオレット・アシュフォードは無実だったのか?」「そんな……」騒然とする中、セドリックの声はなおも響く。「ミアは……馬鹿だったが、俺は愛していた。それに、ミアはルイの母親で……ルイは俺の子だ」その言葉に、彼の瞳が悲痛に歪む。「そうだ、あんなに似ているのに……俺の子供でないなんて、おかしい!ルイは俺の子だ!!」セドリックは叫ぶように言い放つ。「だけど、父はルイまで殺そうとした……だから、俺は父を殺した!」空気が張り詰める。「お前がミアを殺し、お前が俺に父を殺させたんだ! アウグスト!」その叫びと共に、広間がざわめきに包まれた。「枢機卿が人殺し?」「…神に仕えるも
◆◆◆◆◆「枢機卿、貴方の言い訳を聞こうか?」アルフォンスの冷ややかな声が、玉座の間に響き渡る。広間には重い沈黙が広がっていた。王の前に集まった貴族たち、異端審問官、教会関係者、誰もがこのやり取りを見守っている。その視線を一身に受けながら、アウグストは目を細め、静かに答えた。「……妹を救うためとはいえ、私に濡れ衣を着せようとは、あまりに罪深い。神への冒涜ですよ、ルーベンス侯爵」余裕すら感じさせる口調。しかし、その指先はほんのわずかに力が入っている。対するアルフォンスは微動だにせず、冷たい瞳で彼を見据えた。玉座の間には、張り詰めた緊張が漂っていた。アウグストとアルフォンスが対峙する中、ヴィオレットが静かに前へ進み出た。彼女の琥珀色の瞳には迷いがない。手には、一枚のハンカチ。「これは貴方の物ではないのですね?」ヴィオレットは静かに問いかける。アウグストは薄く笑った。「私の物ではない」「このハンカチは母が貴方に贈った物ではないのですね?」さらに問い詰めるヴィオレットに、アウグストは嘲るように唇を歪めた。「自分で工作しておきながら、私に尋ねるとは愚かしい。それは私のハンカチではない――この答えで満足したか、ヴィオレット・アシュフォード?」アウグストの言葉にヴィオレットは静かに応じた。「……そうですか」ヴィオレットは一歩引いた。「では、燃やしてしまっても構いませんね」玉座の間が静まり返る。貴族たちは目を見開き、異端審問官たちは動きを止めた。ヴィオレットはためらうことなく、踵を返し、蝋燭の燭台へと向かう。その歩みは揺るぎなく、迷いの影すらなかった。高位貴族たちが思わず息を呑む。アウグストの視線が鋭くなる。しかし、ヴィオレットは意に介さず、ゆっくりと手を伸ばす。蝋燭の炎が、小さく揺れた。ヴィオレットの指先がハンカチの端をつまみ、慎重に火にかざす。青白い炎が、柔らかな布地を舐めるように走る。金糸の刺繍がわずかに歪み、レースの端が焦げ始める。焦げた糸が縮れ、かすかな煙が立ち上る。炎は静かに、しかし確実に、母が愛した記憶の一端を飲み込もうとしていた。それが消えてしまえば、すべては闇に沈む。――燃え広がるには、あと一瞬。その瞬間だった。「やめろ!」アウグストの鋭い叫びが、玉座の間に響き渡った。彼は反射的に駆
◆◆◆◆◆王城の一室にて、セドリック・アシュフォードは父であるガブリエル・アシュフォードと共に待たされていた。二人をここに呼び出したのは、枢機卿のアウグストだった。王の前でヴィオレットを貶める証人として、彼らは王城に招かれている。しかし、アウグストからの連絡はなく、時だけが過ぎていた。執務室には二人の息遣いだけが響き、重い沈黙が流れる。時計の秒針がカチカチと音を刻む。その音すら、ガブリエルの苛立ちを煽るようだった。「一体、いつまで待たせるつもりだ……」ガブリエルは杖で床を軽く叩き、不満げに眉をひそめた。「全く、あの男はいつもこうだ。人を呼びつけておいて、何の説明もなしに放置するとは……」その金色の瞳には怒りが浮かんでいる。しかし、セドリックは何も答えず、ただ虚ろな表情のまま暖炉の炎を見つめていた。その瞳には、感情の色が感じられない。「セドリック、お前も何か言ったらどうだ。これだからお前は頼りないと言われるのだ」父の苛立った声が執務室に響く。しかし、セドリックは微動だにせず、ただ暖炉の炎が揺れる様子を眺めるばかりだった。その様子に業を煮やしたのか、ガブリエルは杖を握り直し、怒りをあらわにする。「全く……お前がミアになど入れあげなければ、こんな事にはならなかったのに、馬鹿者めが!」「……私のせいだと仰るのですか?」ようやく、セドリックは静かに口を開いた。しかし、その声はどこか遠くを彷徨っているように聞こえた。「当然だろう!」ガブリエルは再び杖を握り直し、力強く床を叩く。その音が室内に響いた。「お前がミアやルイを邸に迎え入れなければ、こんなことにはならなかった! 妾との関係を整理し、アシュフォード家を守るべきだったのだ! だというのに、お前は……!」父の怒りに満ちた言葉が、執務室を支配する。セドリックは視線を下げたまま黙っていた。苛立ったガブリエルは、さらに声を荒げる。「アウグストの罪が暴かれたら私は終わりだ! だが、これで終わらせるわけにはいかん……!」ガブリエルはふと何かを思いついたように杖を置き、机の上の紙に手を伸ばした。「ルイの顔に焼きごてを押し、ミアと同じ傷をつける。そして、それをルーベンス家の門前に吊るすのだ。庶民どもに発見させれば、どうなるか分かるだろう?」「……何を言っているのですか」セドリックは驚いた